こんにちは!自由を目指す雄です。
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今回は、「待ち合わせ時刻の少し前に現地に到着して散歩」の第3弾となります。
待ち合わせ場所は、大田区にある東急池上線の蓮沼駅でした。
蓮沼駅
蓮沼駅は、大田区西蒲田7丁目にある東急池上線の駅です。
東急池上線は、東急電鉄の現存する路線の中で最古の歴史を誇ります。
1922(大正11)年、当時の池上電気鉄道により、蒲田駅・蓮沼駅・池上駅の3駅、距離にして1.8kmから開業したのが始まりであり、故に現存する中ではこの3駅が東急電鉄で最も古い歴史を持つ駅ということになります。
出典:全駅ガイド
出典:マイナビニュース
蓮沼熊野神社
熊野神社は、蓮沼駅から徒歩で約3分の所に位置しており、熊野神社例大祭盆踊りや、納涼親子映画会などが開かれ、催物の場所としても親しまれているようです。
蓮沼熊野神社の創建年代は不詳ですが、隣接するもと別当寺の蓮華寺の創建年代とほぼ同時期の寛弘年中(1004-11)と推定できます。
出典:東京都寺社案内
そして、熊野神社のお隣にある蓮華寺です。
女塚神社
熊野神社から少し足を延ばすと、女塚神社があります。
元は旧女塚村・御園村の鎮守として旧女塚村429番地(現・JR蒲田駅東口付近)に鎮座していた八幡社であります。
創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿には1614(慶長19)年落成の記述があり、遅くともこの頃までに創建されたことがわかります。
1872(明治5)年、新橋~横浜間に東海道線が敷設されることとなり、その用地として社地が収容され、1888(明治21)年、現社地に遷座し女塚神社と改称したそうです。
現社地は、新田義興(新田義貞の第二子・新田神社の祭神)の侍女であった少将局が祀られている霊地であります。
女塚伝説
南北朝時代、新田義興公(新田神社御祭神)は父義貞公の志を継いで勤皇の軍を興し、一度は敗れて越後へと逃れますが、その後武蔵国へ来て兵を募り鎌倉の足利方を討つため軍を興しました。
一方の足利方では義興公の暗殺計画を企て、もと義興公の臣下であった竹沢左京亮を義興公の元に送りました。
罪を詫びて許された竹沢左京亮は義興公の歓心を得るため京都より16~7の上臈を迎えて義興公に奉ったのでした。
上臈とは、江戸時代の大奥女中の役職の一つです。
この女性が少将局と呼ばれた女性です。
このようにして竹沢は義興公にとり入って重く用いられるようになり、時期到来としていよいよ暗殺を実行に移すのでした。
一族郎党を集めて自宅附近に隠して名月の宴を張って義興公を迎え奉り、隙を窺って殺害しようとします。これを知った少将局は義興公に文を届けて、夢見が悪いから七日間は外出しないようにと招待に応じないよう伝えたのでした。
このため竹沢は少将局を殺害し亡骸をそのまま捨て置きましたが、里人がこれを憐れんで祀ったのが女塚であるといいます。
義興公は武運つたなく竹沢の奸計にかかり正平13年(西暦1358年)矢口の渡しに於いて討たれ憤死して多摩川の水泡に帰しました。
神社へ足を運ぶ
少し早く行動することで、こうした時間が生まれます。
自分を清め浄化し、歴史を学び、言い伝えを知る。
また一つ、知識が身に付きます。
いかがでしたでしょうか?熊野神社と女塚神社。
そこには、悲しい伝説が存在していました。
是非、足を運んでみて下さい。
出典:ホトカミ
出典:神社と御朱印
出典:蒲田八幡神社HP